| SAMTAIME's profile真夏の夜PhotosBlogLists | Help |
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July 26 サンクトペテルブルク案ずるより産むが易いというが、まったくそういうことではないようだ。
大連での一日目は細かい人的なエピソードを除いてみると、まずまずといったところかな。
そして、その日の夜に、その日はなかなか立派なお土産をくれていることに気がつく。シャワーの時に、ずいぶん、焼けたのではないか。特に首のところに、V文字ができている。それがいきいきと昼間の日差しのどぎつさを物語ってくれる。後知恵だが、長袖を着ていたらよかった。日焼け止めクリームを塗っておいたほうがよかった(とはいえ、生まれて一度も塗ったことがないのに)…まあ、これからはできるだけ日差しの下での活動を減らそう。
二日目バスに乗っていると、興奮した調子で昨晩遅くまでの「殺人ゲーム」を声高に話し合っている先生たちがいた。なんだ、やっていたのか。12時になってから寝た自分が遅寝の手本と内々誇ったつもりでいたが、そうでもなかった。
雨が降っていて、涼しかった。今日向かうのは、「バンツイダオ(杵ヶ島みたいな感じ)」。これも、昨夜食事をするときに、ガイドと話し合いをしての成果だ。というのは、もともと大連市内から3時間も車に乗らなければならないなんとかという島へ向かう予定だった。往復で六時間。想像するだに恐ろしいその旅にみんな乗る気がしなかったようだ。「行かなくてもいいのか」と聞きたいぐらいだった。そして、今日の目的地に決まった。
初めて聞く名前で、どういうところかという見当もつけられない。一応市内ということで、ひとまず安心したという感じだった。
老虎灘からバスで30分で着いたとガイドに言われると、みんな一様に元気付いた。早寝した人も、遅寝した人も、夜景を楽しんだ人も、「殺人」した人も。雨の中にもかかわらず、目の前がぱっとした感じで、来てよかったという安堵感にみんなが包まれる。
ゴルフ場みたいな感じだった。とは言いながらも、ゴルフ場にいった贅沢な経験もない。頭からそんなふうな感じが見受けられた。北京では見られるはずがない風景。いっぱいの緑、光るような緑、ここで別荘というのは、想像するだけで胸がどきどきする。ひかれる女優を嫁さんにできたら、あるいは憧れの男優を主人に持てたらという感じかもしれない。
100メートルごとに、可愛い動物の彫像が目に映る。あてども無く練り歩く象の親子、乳牛のような模様に大きな耳を持つ犬…そして、なんといっても、七匹あるカタツムリの一行!北斗七星(ほくとしちせい)をかたどっているといわれる。なかなかの傑作だ。後ろの席の元院長は、ヨーロッパの庭園をここに移した感じだとおっしゃる。そういわれると、心の動悸がますます抑えられなくなる。
すぐに降ろしてと無理な注文をするのだが、できるはずがない。路上駐車が許されないのだ。すると、駐車場までの道のりがやけに遠く感じられる。そしてバスが止まるやいなや、飛び降りるというかたちで、みんな感嘆をもらしながら、「海だ」といわれるほうへ、急ぎ足で向かう。
シャッターの押し続け。
北京に住む人間にとって、海は魅力的な存在だ。海は私たちの恋人。この恋人にはなかなか会えない。会えないから、ますます会いたくなる。そして合えるその瞬間の感動をほとんどが覚えたに違いない。海へ海へと。
静かな海ではなかった。海も興奮していたのかもしれない。絶え間なく打ち寄せる波が、その心境を語っている。抱きしめるという力を持つ海。
めぐり合いの一時。再会の一時。
初めてここでタンデムに乗る。想像するほど難しくなかったが、乗れる道があまりにも限られていたので、思い切ってというところまで行かなかったのは、いささか残念だった。みんな嬉しかった。
一生懸命海の向こうを見ようともしたが、濃い霧が立ち込めて、海の中の小さな島より、別に見える風景がなかった…
ぎりぎりまでみんなで遊んでいたが、途切れた雨がまた降り出した。このときほど雨を邪魔に思わないときはなかった。緑の中での散策に、雨がひとしお風情をもたらしてくれる。
一日中ここにいてもいいようなところで、この旅行の頂点と言える。
それに続くのは、どうして行かなければならない買い物。海鮮のスーパーから真っ先に出てくるのは私だった。お土産をいっぱいにぶら下げて戻ってくる人が集まっていると、昼ごはん。
引き続き4D映画、フリータイム。夕方ごろ、ロシア街に。
まれなことに、まったく買い物をしなかった。同僚はどんどん買っていくが、あまり買う気がなかった。ただ見るだけだった。北京とはあまり変わらないから。ロシア街に共鳴できなかった。個人的に、形だけのものには、興味がない。
サンクトペテルブルク。行きもしなかったのに、心のふるさとのようなところ。海外旅行なら、ここが一番行きたい。それから、モスクワ、プラハ、ウィーンぐらいかな。そうそう、ニューヨークも。
そう思うと、夢が膨らむばかりだ…
そんな大連での二日目だった。
July 22 焼けたVネックのTシャツを着るのではなかった。
大連の空模様には感心した。駅を出て覗いた高層ビルの頂上に霧が立ち込めていたかと思うと、いつからともなくきつい日差しが雲の隙間から差し込んできている。
食欲を削ぐような地下の食堂から出てからまっしぐらに向かうのは、市内の観光スポットのようだ。というのも、どこへ赴くかは、まったく見当がつかなかったから。きちんとしたスケジュールというのは、手元に届いていなかった。隣の人に聞いても分からないという冒険みたいな感じが満点。冒険だからいいかと思って、ガイドに任せることにしよう。日本人なら、とっくに苛立っていたことだろう。
まず最初に印象的に感じられたのは、すれ違った路面電車と北京なら大切な役割を果たす自転車の不在だった。
確か7年前に一度大連に短期滞在していた。実習といって、先輩を頼りに無謀にも一人でありったけの生活費を高い乗車券に換えたのだ。乗り換えも北京でしていた。話はそれるが、進んでだまされたのもそのときだった。紫禁城に入るだけのお金はむろん無かったが、天安門から午門までが一般に無料で公開されることにはどれだけ助かったことか。そこが始まりだった。天安門を潜り抜けるやいなや、5,6才の男の子を連れたおばさんに話しかけられた。事情を聞いていると、列車に乗っていて、すりに全財産を盗られて、帰る切符どころか、電話一本をかけることすらできないという。せめて電話をかけるだけのお金、贅沢だがこの子にパン一切れを買うだけのお金をお願いできないかという話だった。
今なら、そんな話にはてっきり耳を貸すこともしない。これも、そのときに決心したのだ。なぜなら、自由に支配できる財産3、40元から、10元も渡した。そのときはアルバイトも何もしていなかった。一角一角を丁寧に使うしかなかった。渡したときも、まさかうそではないだろうと半信半疑しながら渡した。それがまさかということになった。
憶測ではなかった。渡した後から、ありがと感謝されながら、いったんそ知らぬふりで前へ歩いていったが、振り返ってみると、親子がまたほかの人に同じようなことをしていたのだ。パンや電話に余裕のある10元だったのに。
やはりかと思って、今後は同じようなことにあったら、聞くことすらすまいと強く決意した。
それがはじめて出会った北京だった。硬座でつらい思いをしながら大連駅に到着したときに、ポケットに手を入れてみると、まいったと思った。すりに会ったのだ。皮肉なことに、自分が無一文になった。すべてのポケットを探してみたが、幸いなことに、1元が残っていた。それもバス代にしなければならなかった。バスを降りても電話をかけることができない。長いこと自分と戦った後、テレながら話しかけたのは、公衆電話のあるちっぽけな店の主人だった。事情を聞くと、快く使わせてくれた。顔は完全に忘れたが、あの人にどんなに感謝していることか。
というエピソードで、初めて行く大連を、余裕を持って感じることができなかったのだ。
観光バスの窓ガラス越しに、並木もマンションも、公園も食い入るように見ていた。路面電車もこのパノラマの一部だった。全国でも古い歴史を誇る電車だ。それよりも有名なのは、およそ香港の路面電車だが、実際にこの目で確かめたことが無い。すごいと思った。これはまさに大連独特の風景のひとつだ。時間さえあれば、乗ってみたいが、そんな時間の余裕は多分無いだろうと断念した。それと、「KUNG FU HUSTLE」にも確か路面電車が登場していた。そこに乗ると、もしやどこかから斧を振りかざしながらヤクザのチンピラが後を追ってこないか、「POLAR EXPRESS」のように、不思議なたびに出るのではないかと胸のどきどきを禁じえなくなる、そんな微妙な気持ちが襲ってくる。
それに、自転車に乗る姿が見えない。まったく必要が無いということではなく、大連は山が多いから、坂道がほとんどだ。そんな道を、自転車で行くことは、苦行に違いない。北京で生活するのに、自転車は不可欠な交通手段の一つだが、その常識はここでは通用しない。さぞ不便なところも多くあるだろう。その一方で、自転車の不在により、交通が整然としている。歩く人間か、走る車かで、交通がずいぶん簡単になるから。その夜の経験だが、タクシーに乗った。運転手さんは普通の中年男性に見えるが、走り出すと、すさまじいスピードで飛ばす。事故につながるのではないかと思わせるようなスピードだった。それが普通のようだった。
とにかく、観光バスから見た風景は万華鏡のように切り替わるが、その二点が印象深かった。
大連の市街はきれいだった。北京では想像もつかないほど。それもそうだろう。海に臨んだ町だから。でも、本当にきれいだった。日本にいたときも感無量だったが、大連も負けないぐらい。道幅はそれほど広くないが、渋滞はまったく見られなかった。ガイドも誇らしげに大連の交通を紹介していた。いつ北京もこのようになったら、どんなにいいことかと思った。バスが街中をくぐるという感じで、市庁、人民広場とかといったところを過ぎて、着いたのは星海広場だった。同じ広場とはいえ、天安門広場とはまったく正確を異にする。陽光に包まれたこの広場は、緑がいっぱいで、人も多かった。シャッターを切る人が大半だった。われわれも例外ではなかった。今の時代の観光というのは、人間が観光するというよりも、カメラが観光するといったほうが正確だろう。
ここでは自由時間が得られた。そのほとんどを一人でゆっくりした。そんなの何年ぶりかな。素敵な景色に素敵な時間、そして素敵な天気。完璧だった。唯一不足なのは、夜ではないことだ。ネオンやイルミネーションに飾られた広場は、ロマンチックなデートに適した場所に変身するに違いない。普段着で目立たない姿から、恋人に会うために化粧し、晴れ姿に、わくわくする少女の如く。
そして、疲れをものともせず夜の10時近くタクシーで向かったのは、やはりこの広場だった。
(続く)
July 20 パック旅行にはNO大連へ行ってきた。
二年ぶりの旅行とて、行く前からずいぶん期待が高まって、胸をどきどきさせながら列車に乗った。どきどきばかりではなかった。湖北の実家に帰ることを除いて、仕事一筋の生活で北京から一歩も踏み出さなかったストレスから気分転換も兼ねての旅行のつもりだった。
ところが、その複雑な期待感もほぼ大連到着の瞬間からすこしずつ裏切られたかのような気持ちがした。いや、到着までも、ずいぶん気分が損ねられた。一応寝台券だったが、ほかの連中からは離れたコンパだった。しかも、三段ある寝台の上段だった。人を見たら泥棒と思えの世の中だから、落ち着いて寝ることができるはずはない。一歩遅れてきた下の人は、なんと子供二人をつれた親子連れ。
「なんだ、女性ではないな。しかもそんな男…」このように切り出したのは、10歳前後と見られる男児。その話し方から北京生まれであることが分かる。あんな坊やの口からあんなことが言われたのは、あきれるよりほかなかった。それに続くのは、歌うやら、はしゃぐやらの大騒ぎだった。
まいったと思いながらも、その躾のなさに何かを言うことはできなかった。とにかく、消灯時間になると、なんとか身を縮めて横になることができた。それも、翌日の早朝のはしゃぎから目を覚まされて、寝るどころではなかった。
そんな躾のない子は絶対生みたくないとの思いを胸に、前へ前へと運ばれた。そしていよいよ大連駅。
すごい人ごみだった。観光シーズンとあって、駅の出口は出迎えの人で埋まっていた。私たちも向こうの旅行者の人を捜していた。やっとのことで、全員が合流した。
それからは、無論観光バスでの移動。
ところが、ところが、全員を連れて駐車場を満遍なく捜すガイドにもあきれた。車がどこに停めてあるかはわからなかったのだ。一度もガイドになったことがなくて、あまり分からないが、観客を待たせるということは、ガイドにとっては大きな過失になるに違いないと思う。無神経というしかなかった。確認の作業は欠かせないと思う。
そのときに、ほのかでも今度の旅は楽しめるということからはるかに遠いことを予感できた。
ようやく見つけた赤い観光バスにつめられてから向かうのは、市内のホテル並みの味を誇るという朝食をまかなうところだった。そこは、秩序がなく、汚い生産ラインのようなちっぽけな地下の店だった。先着の旅行団もあれば、後ろから来る旅行団もある。まさかと思ったが、これもかけがえのない大連での旅行を位置づけるような出来事だった。なんといっても、あのようなひどいトイレは、今から思っても、吐き気がするような気持ちがよみがえってくる。
(続く) July 12 Long time not seen.久しぶりに同僚に会ってきた。やせつつある自分とは対蹠的に、その友達は、なんだか顔がもっと丸くなったようなイメージを与えてくれた。その話によると、大学の博士コースに進むそうだ。
その勇気には、感心するよりほかなかった。前の話では、修士課程のときに、ずいぶん頑張ったそうだ。息も詰まるほど。それが報いられたか、大学の英語学部に入って、教えてきた。国内きっての英語学部だから、大家を前にして、プレッシャーも感じてばかりいるという話も。それはそうだろう。
プレッシャーなしには、伸びやしない。もっとも、あまりにも強すぎては、へし潰される恐れもある。競争をキーワードとした今の社会では、それは当然のことだろう。
その友達、武漢で若くして大学の先生として教えていたが、この大学を憧れ、院試に参加、合格して、ここの院生になった。僕の在学中も、一年ほど隣同士だったが、本当に勤勉で勉強一筋だった。
そして、今日の話では、社会勉強は皆無だと感慨無量だった。それじゃ、どうやって社会的に成長するかと聞くと、結婚したら自然そうなるとの返事が返ってきた。
結婚かぁ~と僕はなんと言ったらいいか分からないまま、うなずいて見せた。
以前も院生時代の先生に、何回も何回も博士に進学しないかと聞かれたことがある。家族の事情で今の仕事が止められないと表向きにはそう答えている。それも断じてうそではない。本当の原因はもっとほかの所にあるかもしれない。でも、指導教官を前にして、あえて言い出すことはできなかった。
だから、勉強というのは、思い切ってしなければならない。ほかのことと一緒に交わっていると、大変な仕業になるにちがいない。
君のことなら、大丈夫だと思うよと、祝辞めいたことを言った。 July 11 Black Angel
July 08 頭痛わけもなく頭痛が襲ってきた。それも風などの頭痛なんかではなく、エアコンと炎天下を行き交う行動が伴った結果であるように思われる。おいしい物を食べても、頭を抑えても、ただ痛むばかり。横になれるものなら、すぐにでも横になって、じっとしていたいが、明日のことを考えると、どうしても今日中にしておかなければならない。
朝いかなければならないところがある。引き続き昼すぎには、何人かとの論文相談が約束されている…いずれも、後回しにできないこと。
一人だけでの生活もこの羽目だから、それ以上の生活はなんだか想像だにできない。4年前の論文の指導教官のことがいつも思い出される。JRの階段を下りる際も、原稿に対して添削を行う赤ペンが止められなかった。そしてその先生が話していた。「なくして一番困るものは、金でもクレジットカードでもなく、この手帳だ!」その手帳には、決して大げさではないが、一年先のことも約束されていたのだ。
いろいろな意味において、その先生には及ばないが、なんとなく後塵を踏んでいるような気がたまにする。
そしてもう一人の大先生のことが思い浮かべられた。80歳を過ぎているにもかかわらず、「いつもそばに本が」という感じのお住まいを伺わせていただいた。今の時代を評されて、「上といい、下といい、落ち着きを失っている社会」とおっしゃる。確かにそのとおり。
どこかにこの僕と同じように頭痛を抱えている人もいるのではないか。 同化か異化か早くお休みくださいねと言われても、なかなかそうは行かない。自分で自分を追い詰めているのではないかとこの間、留学生と一緒に食事をした時に、韓国人がタイ人に下した処方箋だったが、仕方がないとの一言に尽きたのだ。韓国人の友達は、もうじき国へ帰って、お父さんの会社で働き始めるのに対して、タイ人の友達は、帰って仕事にありつくかどうかとの心配で悩んでいる模様。
留学をありがたい経験とみなしている韓国人とは引き換えに、タイ人は折に触れ中国人と話し合うチャンスをつかもうとしている。経験だなんて、贅沢な話と受け止めているようだ。彼女にとって、親のすねにかじっている自分には、がんばることのほかに、道がないように感じている。
これというのは、まさに余裕があるか否かの問題だと思う。韓国と北朝鮮の夜間を、衛星写真で比べながら行われる報道がある。夜とはいえ、麗しくライトアップされた韓国の町とはまったく違って、北朝鮮の夜というのは、暗闇そのものを十分に表現している。かつて北朝鮮を訪問したアメリカ国務長官のオールブライトもその著書の中で、ピョンヤンの町には、ネオンがあるという印象が見受けられなかったと書き残している。
それでも、新聞報道における北朝鮮のマスゲームから見られるその国民の顔には、意外なほど明るさが定着しているのではないか。わがリーダー、わが国のために尽くすという崇高な思いを胸に、踊り、歌っているのだろう。われわれから見れば、てっきりかわいそうだとしか思わないが、必ずしもそうではないようだ。
わが身を振り返ってみよう。自分自身に満足したという経験はいつだったかを覚えているのか。何かしてよかったという思いは、何日前のことだったのか。今、この瞬間を幸せに思ったことがあるのか。
前へ前へという呪縛から解けられないのではないか。ちょっとでもためらいをしていると、息抜きをしていると、心の焦りから精神的な疲労感がぐんと増大してしまうだろう。
このように、人間であっても、人間でなくなりつつあることは、単に受け止めていればいいということなのか。 |
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