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真夏の夜

November 24

아는 바

오랜만에 옛날의 사진이라든가 편지라들가를 찾아내고 보니까 말없는 감탄을 금할 수가 없게되었다.십여년이나 기나긴 시간때문인지 내게 있어서도 놀라울 만한 일이 많이 일었군아하고 생각하지 않을 수가 없없다.사람이란 누구든 조금씩 변하고 있기에 틀림이 없으면서도 실감할 수가 있는 자는 과연 그렇게 많을까.딴 사람이면 다 변하도 자기만은 언제라도 무슨일이 있더라도 성실하고 가족이나 친구를 외해서는 무엇이든 다 해주는 존재다.요컨대 영원한 좋은님일 수 있는 사람은 자기 밖에 없다는 것이다.이렇게 생각하는 것은 아마 인간이란 동물은 애초부터 싸워주는 세계 특히 이런 세계에 살아가는 자기에 대해 낙관적으로 태어나기 때문이지 않는가.
 
살림이란 누구에게 있어서도 여간 쉬운 일이 아닌다고 한다.그러므로 항상 비관적인 눈으로만 살아가기는 정말 힘든다.정녕 행복한 삶을 위해서는 웃음을 인색하지 않아야 한다.뿐만 아니라 얼굴로만의 웃음 말고 진심으로 웃어보아야 한다.나쁜 일도 당연히 있는 법한데 언제든 새로운 도전을 위한 적극적인 마음을 마련되어 야하고 할 수가 있겠다 최선의 노력을 하면 할 수가 있겠다하는 믿음을 가져야  재미있는 인생의 길도 생긴다.
 
노신이 말한다.원래 지상에 길이 있다고 할 수도 있고 없다고 할 수도 있다.걸어가는 사람이 많아지면 길이 나온다고.사람의미듬이나 노력나름에 성사도 기대된다.대학시절의 글을 보고 나서 뭐라고 할 수 없는데 무거움을 벗어나기 어렵다는 생각도 들었다.즐거움도 나아가서 고통이랄 수 있는 것이 많았던 가운데 나도 모르는 사이에 변했다.유치스러웠던 글도 언제가 보기 좋게 되었고 크나큰 꿈을 꾸어 본 습관도 없어졌다.대신에 보다 작은 것에 대새 감동되고 감명하게 되었다.
 
반면에 영원이 지나가는게 안 변하는 시간이 그럴 듯이 거기에 늘 딴 사람에서 볼 수 없는 내가 있단다.이게 야말로 나다움이라고 일컫을 수가 있다.도대체 무슨 뜻인지 나로서도 모르를 때가 있다.일사생활속에서 다 말로 말 수가 있는 것만이 존재하는 것이 아닌다.
November 18

論文

論文答弁で感心できないところもある。それにもまして論文作成を指導する際に、もっとなんともいえないような気持ちになるときがある。できはどうかはともかくとして、これで忙しいとか、何かに追い回されるかなどの言い訳で本来一大事である論文をないがしろにしてしまう学生がいた。インターネットで入手した翻訳ソフトでやりくりした日本語に文字化けしたような中国語といいたいぐらいだった。忙しいことは理解できる。論文の添削を義務付けられている人だって忙しい。まあ、いいかというような考え方は一度もなかった。その人の人生にも影響することに巻き込まれているから、慎重に対応しなければ気がすまない。
 
それでもあきれたことに、向こうが何でもやってくれ、どうにかしてくれというような心構えができているのだ。こちらはあくまでお手伝いする立場なのだが、そこまで信用されては困る。これさえできれば、あれさえできればという結果論だけで考えるのでは、かえって結果が危ぶまれることになりそうだ。できることはすなわちすることだ。なせばなるとよく言われるが、それはどこまで本当なのか分からないが、しなければできないことは自明のことだ。向こうの山の木のところにたどり着いたら、早く着いたらと願うのは人の気持ちだが、木しか見えないのではだめだ。途中めぐり合えるかもしれない絶景もあるだろうし、性急に道を急ぐことしか知らないのでは、ストレスがたまることにもなる。
 
腹を痛めた子なら、どんな子でも親は大切にする。なぜなら、全身全霊を傾けて長時間心配し、大切にしそして楽しみにしてきた子だから、子宝ではないわけがない。そんな思いで臨んだら、もっと心の余裕ができるに違いない。

分かっていたら

選択を誤る。ということは、ありえるか。言い換えれば、誤った選択と言うのは、あるのだろうか。それがないように思われる。正しい選択、間違った選択というのは、もともとあるかと疑問したくなる。与えられたものから、悩みに悩んで選んだことさえあれば、それこそ正しい選択ではないか。楽しい選択なんてことはありえない。何かを取ることは、何かを捨てることにあたる。ゆえに、できるものなら、たとえ自分に関わることでも、誰かに決めてもらおうという気持ちはないだろうか。
 
誰かに選んでもらうことは、それが後になってまずくなった場合でも、言い訳ができることを意味する。ジェットコースターに乗ることは、危なくみえる。想像だに恐ろしい。見ているだけでも。その分、ジェットコースターに乗る楽しみはわかりっこない。怖くても楽しい経験になるから、経験してみないことには、まずこの点で負けていると言わざるを得ない。ただし、体に障る事情でそれができない場合は別として、胸のときめきさえあれば、十分に感心できる。自分でした選択なら、結果のいかんに関わらず、ずっと楽しむことができる。結果も大切だろうが、自分なりにがんばったという思いのほうも、よっぽどかけがえのないものになるかもしれない。
 
いわゆる正しい選択とは?正しい学校に入った、正しい友達ができた、正しい結婚、それとも正しい専攻を選んだなどといったところなのか。それでは、正しくない学校とは?正しくない友達とは?正しくないけっこん、正しくない専攻とはいったいなんだろうか。すぐに答えが出るわけがない。わかっていたらというものさしで評価するというのであれば、正しくない選択なんて存在しないことになる。経験しなければ分からないのではないか。
 
分かることは時として怖いベールを包まれることが多いが、一方で楽しみなことではないか。
November 04

本物の豊かさ

北京の初雪は例年より1ヶ月ほど早かったという。日曜日の朝、11月の初日でもあった。有名な某女性歌手が自殺した日でもあった。そういえば、その逝去を悼むかのような雪だった。歌手として立派にやっているのに、どうしてそこまでしなければならなかったのかと、信じられないような出来事だった。その大きな疑問符を打ち消そうと、仔細を読んでいると、結婚がなかなかうまくいかなかったとか。二度目の結婚だったらしい。
 
最初の結婚は十年ほど長いものだったにもかかわらず、いったん浮気されているのが発覚すると、離婚に踏み込んだ。そして今度の結婚へと。今の主人も芸能界の人間で、一緒にパフォーマンスをする舞台の写真も公開され、熱ぶりが物語られていた。写真というのは、本当のことが映らない。なぜなら、事情を知らない人間、または知ろうともしない人間には、裏が見えないものだ。われわれには見えるものだけが見える。見たいものだけが見える。
 
人間の裏にはどんなものが潜んでいるか、本人以外は誰もわからないだろう。泣いていても実は嬉しく、笑っていながらも本当は悲しい、そんな素直でない人間がわれわれの周りに、いや、われわれ自身も、そこにいるのだ。人を説得するのは難しいのも、この辺にわけがあるかもしれない。むしろ自分のことともなると、なおさら無理なことになってしまう。
 
だから、本当に幸せな人は、幸せだと口に出したりはしない。僕は幸せだといつも宣言する人は、本当に幸せかと思うと、そうでもない。本当に幸せなら、そこまで言う必要がないはずだ。惨めな境地にいるものこそ、自分を口説こうと懸命になるわけだ。
 
本当の幸せは存在しない。自分を説得しやすいものほど、幸せだ。これは身の回りのものとか、身内の人とかとそんなに関係がない。人間には限界がある。どんな人でも、できないことがいっぱいある。逆に何でもできる人は、何でもできることをなんとも思わず窮屈に思ってしまうから、むしろ何でもできる不幸に陥りがちになるのではないか。それにおもしろいことに、できることはいつまでもできる、できないことはいつまでもできるという構図は、誰にもない。できることができなくなるときの不幸、できないことができるようになったときの至福、人間にとってもっともインパクトをもたらすのではないか。更年期を迎えようとする人間、老人性痴呆症という診断をされた患者さん、新しい作品が書けなくなった作家などに、不安がつのるのは、それなりの原因があろう。その反面、自転車に乗れた日の喜び、いい大学に受かったときの感動、不可能を可能にしたときの達成感など、一生忘れられないものになりそうだ。
 
たとえ一人で無人島に取り残され、何もなくても、いつもどおりに豊かな気持ちでいられる人間は、この世で一番幸せな人間だ。
October 11

理解

言いたいことは何かと詮索しながら読んでくれる人がいるようだ。そこまでしなくてもいいと言いたい。あまりマイナスのことは書きたくないし、むしろ書かないほうがいい。それでもそんな風に読めたのは、残念としか言えない。辞書を作ることの難しさ、むしろ辞書なんか作れるわけがないのではと思う自分は、言葉は危ない冒険だということを十分に分かっているつもりだ。それは正真正銘の諸刃の剣。自分を守ることもできれば、その一方で人ないしは自分を傷つけることはありうるはずだ。
 
だからやめる人はいまだかつて聞かない。だからこそやめてはならないのではないか。沈黙もまたそれ以上に多義的に捕らえられてしまいそうになるから。謙虚さ、傲慢、怒り、喜びとその可能性は無限にある。一人でやっていくのではなければ、どうしても交流が、人との接触が不可欠だ。それなら誤解の生じないよう頑張ればいい。
 
それは夢に近いことだ。自分が見えなければ自分を見失うことになる。かといって、自分しか見えないのも、自分を見失ってしまう。いずれの場合にも、自分をさがさなければならない時期がやってくる。それは今ではないだけのことだ。はっきり言わないことは、読者にそう見えているだけだ。書き手にとっては、十分分かりやすいことが書いてあることになる。そんな一方通行にとどまらないように、自分に問いかけ、または語りかけることが必要ではないか。
 

砂漠

ライサーはタバコに火をつけて一服すると、見るともなく窓越しの風景を眺めた。雲ひとつない青空から一面に降り注ぐまぶしいほどのひざしだった。久しぶりのいい天気に、なんだか心もうきうきするようだ。その一瞬、反射的に影のようなものを思い浮かべた。

そうだ。あの時も絶望するほどのいい天気だった。大好きな母はいつも人魚の物語をしてくれた。そのせいか、家の近くの小さな公園にある小さな噴水が何よりすきで、お母さんの話では、こんな小さな噴水にも小さな人魚さんがいるそうだ。そのうちに、噴水ばかりを見つめるようになった。まだ小学生になったばかりの亮ちゃんは、じっと池の中を見ていては、信じられないふうに「人魚さんまだ?」と手をつないでくれたお母さんに聞いてみた。

「いるよ!きっと。それよりもアイス食べない?」そう質問されてはいつもアイスクリームを買ってきてくれたお母さん。結局アイスクリームに夢中になっているうちに、人魚なんかはすっかり忘れてしまう亮ちゃん。

それでも、今日はなんだかおとなしい亮ちゃんは、池から目も放さずに、軽くうんと頷いただけだ。

「じゃ、すぐ来るからね。」母はそう言って背を向けて行って。

その言葉は最後に聞くお母さんの声になるとは夢にも思わなかった。 

いたっ!と思わず声を出したライサー。お母さんの面影を一生懸命思い出そうとしていると、タバコが燃え尽きそうとしていた。灰皿にすりつぶして、窓の外を見渡すと、取締役を務めるホテルの前の噴水が目に映った。みんなの反対を押し切ってまでこの噴水の建設に関わってきた。これだけ見ていると、なんだか心が癒せるようになる。

 それでも、あの時の空はもっと青かった。あっという間に40年。七歳の小学生から白髪交じりのおじさんに。時間というのはどれほど不思議なものか。お母さんが教えてくれた話では、人魚は年をとらないそうだ。それでも自分だけがずいぶん年をとるのは、いったいどういうことなのだろう。そういえば、お母さんもいつまでもアイスを買いに行く時の笑顔だ。
 
 あのことさえなければ…あのことさえなければ、自分は今どこにいるだろう。誰と一緒にいるだろう。また、今の自分と同じように噴水を眺めていてはため息をつくのだろうか。

川の流れのように、人生はもどることなく、先へ先へと流れていく。人生は舞台のようでもある。ほとんどのときは一人芝居。自分で自分を苦しめまたは自分で自分を楽しませる。これはほかの誰にもできないこと。そのせいで、自分のことでも別人のように感じてしまうことがあるのかもしれない。自分の中にもう一人の自分がどこかに姿を秘めて笑ったり泣いたりしているようだ。そう考えると、なんだか胸が躍るような思いを禁じえなくなる。

確かにいろいろあった。何よりもつい最近一緒に晩餐をとって帰りのタクシーで帰らぬ人となったその友だち。20余年間も親交を重ねてきたその親友が予告もなしに永遠に遠ざかっていくとは、今でも信じられない。彼はそこにいる。いつまでもそこにいる。困ったときに、うれしいときに、いつもいつでも。
 人生をたびとたとえる人がいるが、まさにそのとおりだ。時間が永遠に止まっているようなあの静かな山村も、漠然と目が合ってもあいさつまではしないうつろなまなざしでいっぱいのマンハッタンの町も、禁色に染められ夕日を追いかけていくあの船も、みんなたびのどこかだった。でも、最近強く引かれるのは、砂以外に何も見えない砂漠だ。人も車もなにもかも見えない砂漠そのもの。人なら誰でも逃げ出そうとするが、ライサーはむしろ豊かさそのものだけが見える。何もないことは名に見えないことを意味するのではなく、その正反対で、この世界のすべてを見定めていることになる。豪快だと言えるまでの解放感に包まれるのは、この上ない幸せなことだとも思った。

October 09

移ろい

16年ぶりの声を聞くことができた。中学校の国語の先生からの電話だった。最初は誰かと思ったが、その瞬間、あっと思った。その先生と言えば、なんと言ってもまずは字がきれいだったということが思い出される。小さいときから字が汚いとさんざん言われた自分だから、字がきれいな人にあこがれていた。大学に入ってからも、習字に励んでいたにもかかわらず、家族への手紙の返信には、いつももっときれいに書かないと、いい仕事が見つからないぞとの忠告までもあった。それできれいな字を見ると、まねをするようにしてきた。
 
出身は同じでも、なんだか地方の言葉ではなく、共通語で話していた。その先生は子供が一流大学に入ったが、専攻のことで相談に乗ってほしいと話してくださった。祝福のあとに、自分なりの感想を正直に話した。そういえば、中学生だったころは、その先生には確かに幼稚園児ほどの息子がいたと思い出した。今はもう大学生だとは、なかなか信じられないような気持ちにならずには要られなかった。みんな変わっている。無論自分のほうも。
 
変わらないモノはない。同じようで違う毎日を迎えているのは、すこし不思議な感じがする。明日、来週、来年と考えるわれわれだが、振り返ってみると、自分はもういない。あの自分は違う人だった。これが繰り返されると、もう年だと感無量になるわけだ。自分の写真のコピーを取り、そのコピーでまたコピーをとるようにしたら、意外と何回かすると、自分の顔が真っ黒になる。これに比べて、一日一日と人間自身のコピーと言うのは、完璧にできていると言わざるを得ない。それでも、確実に変わりつつある。
 
October 04

家族

季節の変わり目のせいか、たまにはセンチメンタルになることがある。家族の大切さ、友だちの大切さを今更ながら再認識するような季節でもあるかのような感がする。
 
年をずいぶん取ってからも農事から手放しできず、無理をしてまで野菜畑を愛する親父、それがだめだと言いながら自分もまだ若いから大丈夫だろう大丈夫だろうと無理なまねをするおふくろ。責める立場ではないが、不孝だと知りつつも受話器越しに怒るようなふりをして説教を繰り返す私。息子への負担を最小限にしようとするその気持ちはわかっているつもりだが、それでも年は年だからと、どうか頼ってくださいと何回お願いしたことか。そのたびにうんうんと言っては返事をくれている。結局は一方通行に過ぎないと誰も分かっている。
 
お年寄りは子供だと言われているが、まったくそのとおりだ。そんな話を聞かない親父がこの間倒れた。過労だと言い切るおふくろに、なんと言ったら分からない。もともと持病があるから、今に始まった病気ではないことを何回説明しても一向に分かってくれない。食べたり、飲んだり、寝たりすることさえできれば病気ではないというその先入観に勝つことはできない。なにしろ、田舎ではこのような考え方が圧倒的な多数に支持されているから、どうしようもない。悪化しないうちになんとかできる病気を、いったん発症してしまうと、収拾がつかない手遅れになってしまうことが多いのは、農村の現状だと言わざるを得ない。
 
常識と戦うことはとんでもないほど多くのエネルギーのいることだ。体に気をつけてくださいという挨拶をするときに、本当に聞いてくれればいいと思うが…
September 15

都合

ぱっとしない毎日でいて、せいぜい存在間を感じさせられるような毎日、それはこそ日々是好日。いいこともあれば、よくないことも当然ある。引いていえば、人間というものの宿命かもしれない。人間なら、誰でもいいことでいっぱいの毎日が望ましい一方で、いやなことはできるだけ避けたい。もし、どうすることもできない既成事実になっていたら、一日でも早くその影から抜け出すことができたらと願わずにはいられない。早く終わってくれればいいな。終わったら、人生は順風満帆になるんだ。そう願うのは人の情というしかない。
 
順風満帆。この言葉を仔細に味わってみると、なるほど、そうだと思わせるような部分がある。人間の力では、所詮風そのものを変えることはできない。風はあくまで風に過ぎず、追い風、向かい風なんてもともとあるわけではない。これを人間自身の進路や自分自身の都合といっしょに解釈してはじめて、方向性を示していることになる。道の写真ばかり撮影するカメラマンがいる。まっすぐ伸びる一本の道より、先に霧が立ち込めている道や、緑いっぱいの森を切り裂いたような落ち葉だらけの細道、またくねくねと伸びる山道などのほうが圧倒的に魅力的な存在となる。わからないからこそ、すばらしい。矛盾があるからこそ、すばらしい。
 
そういえば、この間の映画だったが、インドのものだった。やっとのことでマンションを手に入れた主人公の男性は、妻、弟夫妻、母、妹からなる大家族を支えていく大黒柱だったが、乗ると動かなくなる不気味なエレベータや、犬が怖くて逃げ出してしまう自宅、それに自分だけが変な味がする朝の牛乳などと、不思議なことが連発。なによりも恐ろしいのは午後1時になると、自動的につくテレビ。まるで鏡のように家族のこれからの生活をそのまま映し出しているではないか。一寸先のことがわかるから、この男性もどんどんはまっていく。最初はいいことずくめだったが、それでも後味が悪いと思う男性は、仕事の手を止めるまでして電話で終わったばかりのドラマの内容を家族のメンバーに確認する。そのとおり、不祥事がぶっ続け。そして、いよいよ山場を迎えるこのドラマは、男性主人公以外はことごとく殺害されるような最終回の展開へ。死にものぐらいの男は、あの手この手と未然に塞ごうとする。そして、意外なことに…
 
知る者の不幸、言い換えれば知らない者の幸せとでもいうものが、この映画で見事に表現されている。インドの映画、13Bだった。
September 13

散歩

早起きの日だった。というのも、早起きと言えないのかもしれない。異例の早寝だった。信じられないぐらい。きのうは一日中忙しかったせいか、夕方を過ぎるとなんだか頭が痛くなって、何かを始める気分どころじゃなかった。そういえば、昨日も早起きだった。しなければならないことがあって…昨日の前日も。朝寝坊は?したことがなかったわけでもない。思い出しにくい。大学時代にいっぱい朝寝坊をするというのはいかにも主流であるらしい。自分の場合は違う。
 
大学時代はまじめだったから、朝食のためぎりぎりに教室に駆けつけるようなことがあっても、無断欠席は、まずなかった。したがって、朝寝坊の習慣も生まれなかった。そうそう、思い出した。実家に帰ると、朝寝坊をしている。田舎の時間の流れは都会のそれと違って、永遠と思わせるようなものがある。時を刻むとは何かをしみじみと感じることができる、幸せな時間なのだ。20世紀はマラソンの時代で21世紀は散歩の時代だとされている。
 
マラソン競技では大勢の選手たちが気合をかけて首位争いをするので、先へ先へと向かう熱いまなざしに競走とは何かを教えてくれる。いまやマラソンではなく、散歩が憧れの対象になっている。お昼にオフィスビルのまわりをのんびりと散歩するサラリーマン、サラリーウーマンの姿はありふれた風景なのだ。そういえば、一昔前の日本では、こんな曲がはやっていた。
…ゆっくりと歩くのが、一番って、思うけれど、走らなきゃいけないって、思う季節もあるんだって理解った…
 
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